エコリリースに関わって、環境問題についてちょっと意識が高まったかと思います。
そうすると、いわゆる「私は良い人」みたいな環境意識の人が鬱陶しくなることがある。
僕はやはり技術者だから、どちらかというと市民団体みたいな、批判を受け付けない、感情的な話には生理的に拒絶してしまいます。
残念ながら、京都議定書に代表されるように政治的・ビジネス的に環境問題への妄想が使われているケースが多い。
「いわゆる環境問題」について、批判的な学者の本も出ていますが、僕にはそちらのほうが根拠も明確に示しているし、納得のいく議論をしていると思えます。
石油をそのまま燃やさないで、プラスチックにして使ってから燃やせばいいじゃないか、なんて話は、確かにその通りで納得がいきます。
環境問題を考えるときに重要なことは、「想像力」なんじゃないかと思うんですね。
例えば、クーラーは 環境から見るとヒーターです。部屋の中の暑さを外に出しているだけ。。。ではない。それ以上に暑くしている。
でも、クーラーに掛かりながらそんなことを想像することは出来ません。ゴアさんちは、普通の人々の何倍ものCO2を出している。
ただ、そういう想像力の広がり。
自分以外のものをちょっと思いやる。そういう精神が環境問題を語るうえで大切なのだろうと思います。
今の個人主義の行き過ぎた世の中で、環境を語ることは難しいことなのかも知れません。
最近、同じ話を何人かにして、ふと思った。
僕に出会った人って、今まで出来なかったこと動き始める。
それはそれでよろしいなぁってことなのですが。当の本人にとっては怖いことでもある。
ライスワークとライフワークってあると思うんですよ。
ご飯を食べるための仕事と、自分の役割としてやる仕事。
僕はライスワークを否定しているわけじゃない。
最初はライスワークから入るのは正しいやり方だと思うんですね。
一部の天才や、環境に恵まれている方は別にして、やっぱり最初は食べるための仕事だと思う。
なんかわからんけど、自分探しをしている人をかわいそうだと思うし、何でもいいから「ライスワーク」をやったほうがいい。
ライスワークって、意外と大事だと思うんですね。
確かに振り回される仕事だし、忙しいという実感ほど儲かりもしない。
でも、そこで学ぶこと、出会える人、これがとても重要。
そして、ある日突然、ライフワークの種が降って来る。。
その種をつかむかどうか、これはサイコロでも転がして決めるしかないことなんじゃないかな。
ライフワークからライフワークに進むには、ちょっとした思い切りと、背中を押す無責任な人が必要で。
どうも、僕はみんなの背中を押して回っているんじゃないかなと。。。最近、そんな気がして仕方がない。